第二章 漫画家への道の厳しさ 

僕の父は変わった人でした。今でも父が普段何をしていたのか、どんな仕事をしていたのか良く分かりません(笑)しょっちゅう僕の家に電話をかけてくる時があれば、全く一カ月以上、何の音沙汰のない時もありました。僕は父に何をしているのか、どんな仕事をしているのかあまり聞いた事がありませんでした。

しかしながら、後になって父がどういう状態だったのか、何をしていたのか、ほんの少しですが知る事となる日が来ます。

父が亡くなるまで、僕は金銭的に不自由をすることがありませんでした。父は、僕が漫画家になるという夢を追うことに、全面的に経済的援助をしてくれていたからです。

しかし、僕の中ではその援助が、申し訳ないっっと言う気持ちでいっぱいでした。早く漫画家になって父がお金を出さなくても良いように自立しなければ!っと言う焦りがありました。

漫画家への道
僕は昔からこの出版社の、この雑誌の漫画家になりたい、っと言う夢があり、その雑誌の賞に入るように作品の制作をしていました。競争率はとても激しく一回の賞で、600作以上の応募があり、半分に絞り込まれる一次審査ですら名前が載らない事が殆どでした。

その出版社に初めて持ち込みに行ったのは、漫画の専門学校に入っていた時の夏休みの時です。結果は燦々たるもので、制作に何ヶ月も掛かり、苦労して作った作品が「何を言いたいのか分からない」っと数分で追い払われてしまう様な状態でした。

しかし、自分にはこの道しかないんだ!漫画家以外にほかの事は考えられない!という強い思いがあったため、勇気を持って出版社に出向き担当の人と作品について討論を繰り返しました。

好きなものを仕事にするというのは、はたから見ると羨ましい様に思えるかもしれませんが、好きな物を否定される事は非常に傷つくものです。自分の存在を全否定されたような気持になります。好きな物を仕事にする為、自信を失わずに歩み進める事がどんなに大変な事なのか、とても強く思い知らされる経験でした。

持ち込みに行って討論を繰り返す度に、帰りの電車では毎回、悔し涙を流していました。

きっと世に出る為に、一生懸命頑張った人達はこの悔しさ、悲しさを味わいながら、それを乗り越え、世に出て行くのだと思います。(才能のある人は別かもしれませんが…)

そして、討論を繰り返し作った作品が、賞の一次審査も通らなかった僕に、佳作っと言う賞をもたらしてくれました。佳作というのは賞の中でも一番下の賞でしたが、それでも本当に嬉しかったのを覚えています。

その賞を取った以降から、担当さんは僕に連載を勝ち取る為の作品を描くように伝えてきました。連載を取りたいという思いで、一生懸命頑張りましたが、頑張って書いた作品はやはり佳作どまりでした。

それでも、佳作を取った作品が、映画の広告担当の人の目に留まり一度だけですが映画のパンフレットに漫画を載せるお仕事を頂いた事がありました。

その後、プロの人の仕事が見てみたいと思い、担当さんに漫画家のアシスタントをやりたいという話をすると、週刊誌の新人の漫画家さんにつくアシスタントの仕事を貰う事が出来、少しの間でしたが楽しい仕事をすることが出来ました。

一緒に働いてるアシスタントの人達、そして漫画家の先生の苦労話を聞くと、辛いのは自分だけじゃないんだ、っと思えて本当に心の支えになったものです。

丁度その時期でした。僕がアシスタントの仕事をしている時。前々から、電話で話す度に変な咳を繰り返していた、父がやはり病気に掛かって居る事が分かり。父を、入院させるため東京から東北へ帰る事となったのです。

僕が29歳の時の夏でした。

その後父が亡くなるまでの間、僕はその当時、想像もしなかった出来事に遭遇していきます。

第三章 父を牢獄へ送った日