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第六章 このブログを始める切っ掛け 

見えない世界を信じたい!心から幸せだと感じ続けたい!

そう思った僕はとうとう、ヒーリングの先生に見えないエネルギーを感じる回路を開いてもらうと言う事をしてもらいましたが。

結果は本当に悲惨でした。
◆これ以上は難しくて言葉に出来ないのと、本当に長くなるので割愛します◆

とにかく、今は何も感じる事無く何処へでも行けるようになりましたが。

感覚を開いたおかげで、人混み、パチンコ屋、盛り場、人のネガティブな想念が渦巻く所へ行くと具合が悪くなるっと言う現象に長い間、悩まされ続けました。
そのおかげで、一緒に住んでいた友人は家から去っていきましたし、病院に三回入院すると言う燦々たる結果です。神奈川に移住したもう一つの理由には、人の多すぎる東京に住めなくなったと言う理由もありました。

友人が家を出て行ったときは、かなり凹みましたが

実際、完全に独りになってみると、あんがい独りって気楽で悪くないものだ。っと思うようになり、今は独りで居るのが当たり前になってしまいました。

もちろん、時々一緒に遊ぶ友達は居ます。

とにかくこの一件を乗り越えてから、僕の心はかなり強くなりました。昔の様に落ち込んで動けないなんて事も無くなり、原因不明の不安や恐怖も無くなり普通に生きています。

悲惨な体験でしたが今の自分が居るのは、間違いなくこれらの経験があったからだと思っているので、今は良かったと思っています。

やっと、現在の話に移れますが
神奈川に移動してから貯金が底をつき、仕方なく介護の世界に入りました。もともと自由な生き方をしていた僕だったので、介護の仕事は苦痛でしかありませんでした。毎日心が「嫌だ、嫌だ」っと言うのを「お金のためっ」と我慢してずっと続けてきましたが…

ある日、このままずっとこの仕事を続けるのかと思ったら「本当に何の為に生きてるんだろう?」っと言う疑問が湧いてきて、生きるのが辛くなりました。

お金もきついので、どんどん貯金が減っていきます。

そんな時、あまりにもどうしようもない気持ちになったので「働かないで生きる」っとネットで検索をかけて居ました。そこで見つけた単語が「アフィリエイト」でした。
アフィリエイト、ってどうやら難しい物らしいけど、それで自由に生きてる人は存在するみたいだ。と言う事だけが分かり、今度はアフィリエイトについて調べ始めました。

うまい話には裏があるで、詐欺的な話もいっぱい転がっている世界のようでしたが、運が良かったのかいい人に出会い、このブログを始める切っ掛けを作ってくれたアフィリエイトの師匠に出会う事が出来ました。

そこから僕のアフィリエイトへの挑戦が始まりました。

まずは100記事ブログを書くっと言う課題をクリアにする為、ひたすら記事を書き続けましたが、更新が続くごとに、自分が本当にやりたい事って、アフィリエイトでは無いかもしれない、っと思うようになりました。

そこで、師匠から教えて貰ったテクニックを利用し、自分のやりたい事をこのブログでやろうっと言う考えになってきました。ブログの方向性が変わりそうですが、自分のしたいに従って方向性を決めたいと考えています。

長い記事をここまで読んで下さって本当に有難う御座います!

この自己紹介以降からの記事は、本文になります。僕の様に、自由を選択したいっと思って居る人の助けになる様な記事が書けるように一生懸命、記事を作って行きたいと思って居ます。

僕と言う存在に少しでも興味を持ってくれて、気に入って下さる方が居ましたら、これから末永くお付き合いください。どうぞヨロシクお願いいたします。

第五章 見えないの世界への探求

こんなに長い生い立ちをここまで読み進めて下さって本当に有難うございます。

ここまで読み進めて下さったあなたは、僕の生い立ちに本当に興味があり共感されて下さった優しい方なのだと思います。

ここまでで、父と母のお話をしてきましたが、この章からは僕の話になっていきます。

いい加減長いですね。。。。

が。。。。です。

突然ですが、あなたは見えない世界を信じる方ですか?それとも怪しい!そんなものあるわけがない!っと思われる方ですか?

何だか怪しい話になりますが、霊感とかスピリチュアルなどと良く言われる世界ですね。
世の中には見えないエネルギーの世界を動かして生きてる人達が確実に存在しています。この章以降はそんな話が理解できる方のみ読んだほうが良いかもしれません。嫌悪感のある方に無理に読めとは勧めませんので、ご自身で判断なさってください。

それでは話を進めていきます。

父と母を失った僕は、恐怖心でいっぱいになって居ました。独りになる事を恐れていたのです。僕には十年以上一緒に住んでいた、友人が居ました。下手な夫婦より長い時を過ごして居て家族みたいな関係でしたが、僕は友人まで失ったら完全に独りになるっと何処かで失うことを恐れて居ました。

この頃、世はスピリチュアルブーム、江原さんや美輪さんなどがテレビに出てオーラの泉などをやって居たころですね。

父と母を失った僕は、常に「人は死んだら何処に行くんだろう?」っと考えて居ました。だからこそ江原さんや美輪さんの語っていたことが、その時の僕には凄く良く入って来たのだと思います。

その時から僕は見えないエネルギーの世界が本当に存在するのか夢中で追いかける事になります。江原さんの本を読み、ネットで色々調べ上げスピリチュアルに関する書籍を読み漁って居ました。

しかしどこか心の奥まで納得できず。これから生きて行くために心から信頼できるものって何なんだろう?と考えて居ました。

そこで出会ったのが、ヒーリングと呼ばれる物をする人達です。ヒーリングとは、見えないエネルギーを動かして人を癒す人達です。
初めてそのヒーリングのグループの人達に出会ったとき、僕はあるヒーリンググッヅを手にしていました。それを持って居たら自分の体が物凄く熱を帯びたように熱くなるのを感じ、思いがけない体の変調に僕は不安になって、そのヒーリンググッズを販売していた販売元に「体が熱を帯びたように熱くなったが大丈夫なのか?」っと問い合わせをする事になります。

するとその販売元から、あなたはエネルギーを感じ取れる方なのですね、是非深く学ばれることをお勧めします。っとメールが帰ってきたのです。

それを聞いた僕は、怪しい宗教団体に勧誘されたらどうしよう?っと言う恐ろしさを感じましたが、勇気を持ってそこへ行ってみることにしたのです。

ネットで調べて赴いた場所は、東京の中野坂上と言う場所にあったヒーリング施設でした。僕は体が熱くなったヒーリンググッズが一体何なのか深く知りたいため、そのヒーリンググッズの事を深く教えてくれると言うヒーリングの授業にお金を出しました。

最初は警戒していましたが、明るく馴染みやすい雰囲気で優しく対応してくださるヒーラーの人達に心を許すようになり、楽しく勉強をしていました。その時は心が気持ちよくなり、いつもと違う雰囲気に救われたような気がしました。

そこから僕はヒーリングに興味を持ち始めるようになります。

一回目の授業を受け、明るい気持ちになった僕ですが、また日常に戻っていくと気分は重くなり、気持ちは沈んでいきました。父と母を亡くした頃から胸が詰まっているような感覚があり深く呼吸ができず、常にため息をついて呼吸の苦しさを紛らわせようとしていました。

その当時、この胸の詰まりが治るなら何でもしたい!っと考えて居ました。

そこでまた、ヒーリング施設に赴き、今度はそのヒーリング団体が行っている、ヒーリングの勉強ができる授業に参加する事にしたのです。

その授業には参加者が何人かいて、僕らは小綺麗な部屋に椅子を並べて授業の話を聞いていました。

授業が進むにつれ、頭が歪められる様な不思議な感覚を感じる様になりました。それが何だか気持ち悪く、体調が落ちて行きました。そこで授業は見えないエネルギーを体の中に通すという話になり、僕はその授業を受けだしたころから、突然目の前が真っ白になり、その場で倒れてしまったのです。

倒れた後、僕はヒーラーの先生に少し休むように言われ別室のベッドに横になって居ました。暫く横になっていると、授業をしていたヒーラーの先生がやってきて、僕の胸の上の空間に手をかざし「今日はこれを取るためにココに来たんだね」っと言われました。

その時は良く分かりませんでしたが、家に帰ってから自分の胸の詰まりが取れて呼吸が楽になっているのを感じたのです。

長年ずっと苦しんでいた胸のつかえが取れた事に、大きく驚き、これは凄い!っと思った僕は、そこからすっかりヒーリングに夢中になって居ました。

それからと言う物、何かあるとヒーリングを受けに行く様になります。

見えないエネルギーを感じ取れる感覚が、ヒーリングを受ける時だけ感じられました。そのエネルギーの感覚を感じられるときは、見えないエネルギーの世界って本当にあるんだ!っと信じられるのですが、日常に戻るとまた何も感じられなくなり、気分は落ち込んでいました。

そこで、僕は見えないエネルギーの世界を感じられるように感覚を開きたい!と思ってしまいます。それが僕を長年悩ませる事態となる事を、その当時の僕は全く分かって居ませんでした。

第六章 アフィリエイトと出会う切っ掛け

第四章 父の残した一つの段ボール箱

父の葬儀が終わり、僕を待っていたのは相続の手続きと、父が残した家と、遺品の後片付けでした。

僕には兄弟が居ません。父にはお兄さんが居ましたが、そのお兄さんも精神的に病を抱えており結婚することなく、父が亡くなる前に亡くなって居ました。難しい相続問題に巻き込まれる事無く相続の手続きは進んでいきました。

東京で行っていたアシスタントの仕事は、新人の漫画家さんの連載に人気が出なく、打ち切りになり無くなってしまいました。

そこで僕は父方の親戚のお世話になり、父の残したの遺品の後片付けと、相続の手続きに故郷に何度も戻ることになります。

父が生きている時から、特に僕の気を重くしていたのは、父の遺品でした。

父は物を捨てる事が出来ない人で、なんでも捨てずに家にため込んで居ました。その遺品は足の踏み場もない程に家を埋め尽くしており、それは正しくゴミ屋敷だったのです。

家の木は伸び放題、遺品は家の中、外にたくさん積まれており異様な雰囲気が立ち込めていて、近所でも評判になるほどでした。

廃車にしなければならない車は捨てられることなく、父の持って居る土地と、家に置きっぱなしになり、何台もそのままになって居ました。

僕にはこれを片付ける責任がある!

そう思い、後片付けに着手しました。そこで、後片付けに協力してくれた業者さんと出会うことになります。その業者さんは警察との繋がりもあり、後々になって出てくる父の遺品で起こる問題を内密に処理してくれました。

父の遺品で問題が浮上すると業者さんから電話が来ていました。

その一つが猟などで使われる散弾銃でした。父は散弾銃を、所持の許可が降りても居ないのに、家隠し持っていたそうです。業者さんは銃は壊して安全に廃棄したと話してきました。父が生きている時にそれを使わなくて本当に良かったと思っています。

他に問題になったのは、写真でした。家の何処かに隠されていた写真。

その写真の内容は僕には詳しく伝わることがありませんでしたが、警察が関わる深刻な内容だったようです。

ある日、僕の家に一個の段ボール箱が届きました。あて先は書かれておらず、僕は何だろうと不思議に思い開けようとしました。

所が、何故か箱に手をかけた瞬間「これは開けてはいけない物だ」っと僕の中で直感的に何かを感じとり、手が止まりまし。

すると暫くして、業者さんから電話が掛かってきて、箱は開けずにお寺などでお焚き上げしてもらって欲しいっと言われました。僕が聞いたのは、その写真は警察に渡されたそうですが、もう父は亡くなったので、これ以上問題にはしないと言う内容だけでした。

もし、その段ボール箱を開けて居たら、僕は立ち直れないほどショックを受けていたかもしれません。

その後、父方の親戚にお世話になる度に、父が普段何をしていたのかが親戚から語られました。その内容は、僕に一度も怒った事が無い優しい父からは想像も付かない内容ばかりでした。

生前父からは警察相手にやったやんちゃ話を良く聞かされては居ましたが、僕の中では優しい父のまま記憶が終わって良かったと思っています。

父と母を亡くした僕は、確実に精神的に追い込まれていました。その後、僕は不思議な方向へ歩き出してしまうのでした。

第五章 見えないの世界への探求

第三章 父を牢獄へ送った日

父が病気である事を知り、東北に戻ったのは九年ぶりだったかもしれません。

僕は故郷に良いイメージがありませんでした。小学校、中学校時代は学校でいじめがありましたし、専門学校を出てからは、母方の親戚との揉め事、友人からの裏切りも何度も経験しました。なので故郷に帰りたいと言う思いがあまりなく、故郷には殆ど帰る事はありませんでした。

父と会うのも本当に久しぶりで、以前に会った父とは全く変わっていて、すっかり痩せこけて居ました。僕と父は、焼肉屋さんで昼食をとり病院へ向かいました。

僕は、父の病気が肺がんである事を病院から知らされていて、もう助からない事も知っていました。ただ、このまま父を放って置くと何処に行くか分からない人なので、消息不明になって、どう亡くなるか分からない状態が放って置けなくて、最期を病院で看てもらいたいと思い帰省したのです。

その後、入院中の父を家に一度帰してあげたいと、何度か故郷と東京を行ったり来たりしていましたが、暫くして仕事中に病院から連絡がありました。

父が病院で問題行動を起こしており、普通の病院では手に負えないので精神病院に入院させてほしいっと言う話でした。

僕はその話を聞くまで、父が精神に病を持って居る事を全く知りませんでした。

その後、父は夜中に病院を徘徊し階段で転び、頭を怪我をする事になります。このままでは危険であると判断された父は、精神病院への転院が急がれました、父は薬で眠らされ救急車に乗せられ故郷では有名な精神病院へ移送されました。

僕はその時、精神病院と言う所がどんな所なのか、全く分かって居ませんでした。病院に入ると、手作りの折り紙で飾られた明るい雰囲気の病室があり、こんな所なんだなっと安心して奥へ入っていきましたが、どんどん奥へと進んでいくと病院の様子が変わっていき、物々しい、鍵がないと開けられないエレベーターに乗せられ、案内されたのは、重度の精神病患者が隔離される閉鎖病棟でした。
窓には鉄格子が掛かっており、奇声を上げる男性、意識が飛んでいて急に暴れだす男性、それを力ずくで壁に押さえつけて制止する白衣を着た看護師、目に映るすべてが地獄の様に見えました。体育館のような閑散とした空間にベッドが沢山並べられているだけの、生活感のない空間。僕は、病気で体の弱っている父をこんな牢獄のような所に入院させるのかと思ったら、すっかり動揺してしまい、入院手続きの話し中も涙が止まらず、まともに話を聞ける状態ではありませんでした。

しかし幸いな事だったのかもしれません、父は閉鎖病棟に長く居る事はありませんでした。すぐに体力が落ち、寝たきりになってしまったので、医療行為が行える元の病院に戻ることになりました。元居た病院が本当に普通の空間に見えて、心から安心したのを覚えて居ます。

それから一か月が経った頃。父方の親戚から父が亡くなったっと連絡があり、直ぐに東京から故郷に帰りました。

葬儀が終わり。全てが落ち着いた頃、僕はずっと心の重荷になっていた、父親の残した問題にメスを入れることになります。

それは、父の知らなかった部分と向き合う作業でもありました。

第四章 父の残した一つの段ボール箱

第二章 漫画家への道の厳しさ 

僕の父は変わった人でした。今でも父が普段何をしていたのか、どんな仕事をしていたのか良く分かりません(笑)しょっちゅう僕の家に電話をかけてくる時があれば、全く一カ月以上、何の音沙汰のない時もありました。僕は父に何をしているのか、どんな仕事をしているのかあまり聞いた事がありませんでした。

しかしながら、後になって父がどういう状態だったのか、何をしていたのか、ほんの少しですが知る事となる日が来ます。

父が亡くなるまで、僕は金銭的に不自由をすることがありませんでした。父は、僕が漫画家になるという夢を追うことに、全面的に経済的援助をしてくれていたからです。

しかし、僕の中ではその援助が、申し訳ないっっと言う気持ちでいっぱいでした。早く漫画家になって父がお金を出さなくても良いように自立しなければ!っと言う焦りがありました。

漫画家への道
僕は昔からこの出版社の、この雑誌の漫画家になりたい、っと言う夢があり、その雑誌の賞に入るように作品の制作をしていました。競争率はとても激しく一回の賞で、600作以上の応募があり、半分に絞り込まれる一次審査ですら名前が載らない事が殆どでした。

その出版社に初めて持ち込みに行ったのは、漫画の専門学校に入っていた時の夏休みの時です。結果は燦々たるもので、制作に何ヶ月も掛かり、苦労して作った作品が「何を言いたいのか分からない」っと数分で追い払われてしまう様な状態でした。

しかし、自分にはこの道しかないんだ!漫画家以外にほかの事は考えられない!という強い思いがあったため、勇気を持って出版社に出向き担当の人と作品について討論を繰り返しました。

好きなものを仕事にするというのは、はたから見ると羨ましい様に思えるかもしれませんが、好きな物を否定される事は非常に傷つくものです。自分の存在を全否定されたような気持になります。好きな物を仕事にする為、自信を失わずに歩み進める事がどんなに大変な事なのか、とても強く思い知らされる経験でした。

持ち込みに行って討論を繰り返す度に、帰りの電車では毎回、悔し涙を流していました。

きっと世に出る為に、一生懸命頑張った人達はこの悔しさ、悲しさを味わいながら、それを乗り越え、世に出て行くのだと思います。(才能のある人は別かもしれませんが…)

そして、討論を繰り返し作った作品が、賞の一次審査も通らなかった僕に、佳作っと言う賞をもたらしてくれました。佳作というのは賞の中でも一番下の賞でしたが、それでも本当に嬉しかったのを覚えています。

その賞を取った以降から、担当さんは僕に連載を勝ち取る為の作品を描くように伝えてきました。連載を取りたいという思いで、一生懸命頑張りましたが、頑張って書いた作品はやはり佳作どまりでした。

それでも、佳作を取った作品が、映画の広告担当の人の目に留まり一度だけですが映画のパンフレットに漫画を載せるお仕事を頂いた事がありました。

その後、プロの人の仕事が見てみたいと思い、担当さんに漫画家のアシスタントをやりたいという話をすると、週刊誌の新人の漫画家さんにつくアシスタントの仕事を貰う事が出来、少しの間でしたが楽しい仕事をすることが出来ました。

一緒に働いてるアシスタントの人達、そして漫画家の先生の苦労話を聞くと、辛いのは自分だけじゃないんだ、っと思えて本当に心の支えになったものです。

丁度その時期でした。僕がアシスタントの仕事をしている時。前々から、電話で話す度に変な咳を繰り返していた、父がやはり病気に掛かって居る事が分かり。父を、入院させるため東京から東北へ帰る事となったのです。

僕が29歳の時の夏でした。

その後父が亡くなるまでの間、僕はその当時、想像もしなかった出来事に遭遇していきます。

第三章 父を牢獄へ送った日

第一章 神様!どうか、もう楽にしてあげてください!

病院
そう泣きながら、苦しむ母の腕をさすり続けたのは、今でも忘れられない、19歳の元旦の日でした。

その日は、9年間入退院を繰り返し、乳癌と戦い続けた。母の最期の日でした。

ガンが見つかった時は、すでに遅く、もってあと3年と言われた母でしたが、僕が成人する間際まで頑張って生きてくれた事を後になって感謝しています。

いつも喧嘩ばかりしていた、母と僕ですが、亡くなって、初めて自分は、母に愛されて居たのだなっと思い起こす事がいっぱいです。

息を引き取り、生きていた筈の母が、まるで人形のように、母からただの物質に変わっていく様子を僕は大きな声で泣きわめきながら、見届けました。

絶望感と、強い孤独感を感じながら、集中治療室の外へ出た時。テレビでは、年を越してお祝いムード、明るく楽し気なテレビの様子を見て、自分の絶望感とは全く関係なく世の中が動いて居る事を、恨めしく思い、自分だけが一人取り残されたようなどうしようもない気持ちでいっぱいになっていました。

今思うと、この出来事がきっかけで、僕の二十代は精神的に不安定な物に変わっていたのだと思います。

葬儀が終わり、時間は普通の日常に戻っていましたが、僕の中では、苦しんで死んでいった母の姿が、焼き付いて頭から離れませんでした。夜も眠れず、皆、いずれ自分の前から居なくなっていく!っという強い恐怖心でいっぱいになっていました。

母は、僕が小学校一年生の時に父と離婚、父には月に一回会う程度でした。母は、女手一つで僕の事を育てて行こうとしていましたが、ガンが見つかり、病気と闘いながらではとても、子供を育てられないだろうという祖父の判断で、母と僕は、母の実家に移ることになりました。

祖父は戦争時代を生き抜いてきた、とても厳格な人で、僕は小さい頃から、とても怖い人だと恐れていました。帰る時間も、ご飯を食べる時間も、生活の仕方も、とても厳しく、少しでも何か問題があると、大きな声で怒鳴られていたのを思い出します。

祖父は、僕に家を継いで欲しかった様ですが、僕にはそんな気持ちは更々なく、漫画の専門学校を卒業したら漫画家になるために、東京に行くと決めていました。

その事を、面と向かって祖父には言えず、自分の思いをつづった手紙を送り、思いを伝えました。それは、母が死んで数カ月がたった時の事でした。

するとそれから間もなく、まるで母の後を追うように祖父も心筋梗塞で倒れ、亡くなります。

僕はその時、家を離れて友人と二人で生活していましたが。親戚が、家に何度も電話をかけてきて、残された祖母を誰が面倒みるかで、常にもめていました。僕は、その騒動に精神的に耐えられなくなり、母の籍からはなれ、父の籍に戻ることを決めました。

それから、僕は父の助けを借りて、友人と二人で、東京へ上京する事となります。

第二章 漫画家への道の厳しさ